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韓国文学の源流 短編選4『雨日和』

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韓国文学の源流 短編選4 1946–1959 『雨日和』  池河蓮(チ・ハリョン)、桂鎔默(ケ・ヨンムク)、金東里(キム・ドンニ)、孫昌渉(ソン・チャンソプ)、呉尚源(オ・サンウォン)、張龍鶴(チャン・ヨンハク)、朴景利(パク・キョンニ)、呉永壽(オ・ヨンス)、黄順元(ファン・スンウォン) 著 オ・ファスン、カン・バンファ、小西直子 訳 四六、上製、296ページ ISBN978-4-86385-607-3 C0097 装幀 成原亜美 装画 松尾穂波 植民地から解放されても朝鮮戦争の戦後、完全に 南北に分断され交流を絶たれた人々の苦悩は続く 「解放」後の混乱期に肩書をなくした高学歴の青年が<小ブルジョア>としての運命を予感「道程」。満洲からソウルに辿り着いた母と息子の、部屋さえ得られない苦難の日々「星を数える」。ひとところにとどまらず回遊していく男と、定住したまま動こうとしない女の相克「駅馬」。釜山に避難した貧しい兄妹のおぼつかない日々。ある日、二人は行方知れずになった「雨日和」。前線で戦っていた兵士が突然拘束され、転向を拒否したために辿る悲惨な運命「猶予」。南の島に幽閉された二人の捕虜。自死した仲間の家を訪ねた男を息子と思い最期を迎える母「ヨハネ詩集」。戦争時に夫を、戦後息子を失った女は神も信じられず、早逝した息子の位牌も焼いてしまう「不信時代」。朝鮮戦争は終わったが、その後軍の監房に収監された兵士たちのドタバタ劇「明暗」。休戦後、世の中はがらりと変わり、戦争時の密告者が罪の意識に苛まれるようになる「すべての栄光は」。 【目次】 道程―小市民 도정-소시민  池河蓮(チ・ハリョン/지하련) カン・バンファ訳 星を数える 별을 헨다 桂鎔默(ケ・ヨンムク/계용묵) オ・ファスン 訳 駅馬 역마 金東里(キム・ドンニ/김동리) 小西直子 訳 雨日和 비 오는 날 孫昌渉(ン・チャンソプ/손창섭) カン・バンファ 訳 猶予 유예 呉尚源(オ・サンウォン/오상원) 小西直子 訳 ヨハネ詩集 요한시집 張龍鶴(チャン・ヨンハク/장용학) カン・バンファ 訳 不信時代 불신시대 朴景利(パク・キョンニ/박경리) オ・ファスン 訳 明暗 명암 呉永壽 (オ・ヨンス/오영수) オ・ファスン 訳 すべての栄光は 모든 영광은 黄順元(ファン・スンウォン/황순원) 小西直子 訳 【著者プロフィール】 池河蓮(チ・ハリョン) 一九一二―一九六〇。慶尚南道の居昌(コチャン)に生まれる。本名は李現郁(イ・ヒョヌク)。一九四〇年、雑誌『文章』に「決別」を発表し作家となる。日本に留学し東京の昭和高等女学校に通ったと言われる。KAPF(朝鮮プロレタリア芸術家同盟)の指導者であった林和(イム・ファ)の妻としても知られる。一九四五年八月十五日の光復後は朝鮮文学家同盟に加担し、一九四七年に夫婦で越北するまでに多くの作品を発表した。主な作品に「決別」(一九四〇)「滞郷抄」「秋」(共に一九四一)「山道」(一九四二)「道程」(一九四六、朝鮮文学賞)「クァンナル(広津)」(一九四七)などがある。 桂鎔默(ケ・ヨンムク) 一九〇四―一九六一。平安北道生まれ。幼時の初名は河泰鏞(ハ・テヨン)。一九二八年に日本の東洋大学・東洋学科に入学。渡日以前から、一九二〇年に少年誌『鳥の声』に詩「寺子屋が壊れ」を発表して懸賞二等になるなど、詩や小説を執筆して作家としての頭角を現す。本格的活動は一九二七年、『朝鮮文壇』に小説「チェ書房」が当選してからである。一九三五年、同誌に「白痴アダダ」を発表し、作家としての地位を固める。その頃が彼の黄金期と評価されている。帰国後、朝鮮日報の出版部などでの勤務を経て、みずから出版社を設立している。一九四五年の「解放」直後、左右の思想に分かれる文壇の対立のなかでも、中立的立場を守ろうとする作家でもあった。「人頭蜘蛛」(一九二八)などに代表される初期の作品は現実主義的、傾向派とされるが、次第に芸術重視の作品世界へと変わっていった。晩年の作品では問題提起はするが、解決しようとする姿勢が見られず、それが彼の限界でもあると評されている。「解放」後の代表作が本書収録作品「星を数える」(一九四六)である。 長くない生涯だが、四十編以上の短編、エッセイ集『象牙塔』(一九五五)などを残している。 金東里(キム・ドンニ) 一九一三―一九九五。慶尚北道慶州(キョンジュ)に生まれる。本名は金始鍾(キム・シジョン)。母親が熱心なキリスト教徒だったことからキリスト教系の学校に通っていたが、一九二八年にソウルの儆新(キョンシン)高等普通学校に編入。しかし、翌年に退学。その後は読書に没頭し、一九三四年に詩「白鷺」が朝鮮日報の新春文芸に入選、登壇。翌一九三五年に朝鮮中央日報の新春文芸に短編小説「花郎の後裔」が入選し、小説家としての執筆活動に入った。一九三六年には東亜日報の新春文芸にも「山火」で入選している。その後、多数の作品を発表し、韓国を代表する純文学作家となったが、執筆活動のほかにも韓国文人協会の副理事長を皮切りに、中央大学芸術学部学長、韓国小説家協会会長、大韓民国芸術院会長、韓国文人協会名誉会長を務めるなど、社会活動も旺盛に繰り広げた。その文学的な特色としては、土着的な韓国人の生き方や精神を深く探求し、それを通じて人間に与えられた運命の究極のありさまを理解しようとする努力が挙げられる。そうした努力の結果として、伝統、宗教、民俗などの世界に最も関心を寄せた作家と評されるようになったが、そういった作風のものにとどまらず、当代の歴史的状況や知識人の苦悩を真っ向から扱った作品なども書いている。前者の代表作として「巫女図」(一九三六)、「黄土記」(一九三九)、「駅馬」(一九四八)、「等身仏」(一九六一)などがあり、後者の代表作としては「興南撤収」(一九五五)、「蜜茶苑時代」(一九五五)などがある。アジア自由文学賞(一九五八)を始めとし、五・一六民族文学賞(一九八三)、韓国芸術評論家協会が選定する二〇世紀を飾った韓国の芸術人(一九九九)など受賞多数。韓国の国民勲章柊柏章(一九六八)および牡丹章(一九七〇)も受けている。 孫昌渉(ソン・チャンソプ) 一九二二―二〇一〇。平壌(ピョンヤン)市生まれ。一九三五年に満州に渡り、のち日本で複数の中学校課程で苦学し、に日大にも在籍したという。一九四六の朝鮮解放と同時に帰郷するが、一九四八に越南。教師や雑誌社、出版社などの職を転々とし、一九四九年に短編「いじわるな雨」を『連合新聞』で発表。その後、短編「公休日」(一九五二)と「死縁記」(一九五三)を『文芸』で発表し作家デビューした。越南民の悲惨な避難生活を描いた「雨日和」(一九五三)で一躍注目を集め、「生活的」(一九五三)、「血書」、「人間動物園抄」(共に一九五五)などの作品を通じて著者ならではの悲観的かつ冷笑的な人間観を表出し、戦後の文壇を代表する若手作家のひとりとなった。一九七三年に日本に渡り、一九九八年に帰化。一九七六年『韓国日報』に長編歴史小説『流氓』を連載。二〇一〇年に東京で逝去。 呉尚源(オ・サンウォン) 一九三〇―一九八五。平安北道宣川郡(ソンチョングン)に生まれる。ソウル龍山高等学校を経て、ソウル大学仏語仏文学科卒。ソウル大在学時から同人活動を行っていたが、大学卒業と同時に東亜日報に入社した一九五三年に戯曲「錆びる破片」が劇芸術協会の公募に入賞し、文壇デビュー。一九五五年には短編小説「猶予」が韓国日報の新春文芸に入賞し、本格的に作家としての活動を開始した。その後、代表作とされる短編「謀反」などをはじめ、多数の作品を発表し、韓国の戦後世代文学を代表する作家のひとりに数えられている。戦後世代とは、韓国でいうところの六・二五、つまり朝鮮戦争の停戦直後である一九五〇年代の初頭から中ごろに登壇した作家を指し、青年期に入ってからの朝鮮戦争の経験を重要な文学的資産としているという共通点がある。呉尚源もやはりその特徴を示し、朝鮮戦争の頃を舞台とし、人間が「生きていく」ということ、生の中で「行動する」ということの意味を突き詰めようとした作家である。大学で仏文学を専攻したことから、フランス行動主義文学や実存主義文学に接し、その影響を受けたこの作家は、戦時の社会・道徳的問題を扱い、戦後世代の精神的挫折を行動主義的な観点からテーマ化する作品を残したが、七〇年代以降は執筆より言論活動に力を注ぎ、東亜日報の論説委員も務めた。記者在職当時は東亜日報に「汗を流す韓国人」と題した紀行文を連載したりもした。主な著作としては、短編「亀裂」(一九五五)、「謀反」(一九五七)、「現実」(一九五九)、「勲章」(一九六四)、「煙草」(一九六五)、長編「白紙の記録」(一九五七)などがあり、一九五八年には「謀反」で第三回東仁文学賞を受賞している。 張龍鶴(チャン・ヨンハク) 一九二一―一九九九。咸鏡北道の富寧(プリョン)に生まれる。一九四二年に早稲田大学商科に入学後、学徒兵として日本軍に入隊し、終戦と同時に帰国した。一九四七年に越南し、高校や大学で教鞭を取ったのち、一九六二年から『京郷新聞』『東亜日報』などの論説委員を務める。一九四八年の高校教師時代、処女作「肉囚」を脱稿し、一九四九年に『連合新聞』で「戯画」を発表。一九五〇年に短編「地動説」、一九五二年に短編「未練素描」で『文芸』誌の推薦を受けて文壇デビューした。その後、「死火山」(一九五一、発表は一九五四)、「無影塔」(一九五三)「復活未遂」(一九五四)「非人誕生」(一九五六―五七)「易性序説」(一九五八)「現代の野」(一九六〇)「円形の伝説」(一九六二)など多くの作品を発表した。一九五五年に『現代文学』で「ヨハネ詩集」を発表してから作家として注目を浴びはじめ、現代を生きる人間の条件という問題に集中的に取り組みはじめた。観念小説という新しい系譜を生み出し、朝鮮戦争を世代的自意識としてとらえ、その時代性を小説で表現しようとした作家として評価されている。 朴景利(パク・キョンニ) 一九二六―二〇〇八。慶尚南道生まれ。本名は朴今伊(パク・クミ)。一九四五年、晋州高等女学校を卒業してすぐに結婚し、娘を生む。一九五〇年師範大学を卒業し、中学校の教師になる。朝鮮戦争のさなかに夫を失い、五三年に再婚する。以降、幼少時代から大の読書好きだったこともあり、創作活動を始める。一九五五年に作家金東里の推薦で『現代文学』に短編「計算」を発表し、翌年の短編「黒黒白白」で本格的デビューとなる。五七年に発表した本書収録作品「不信時代」で第三回現代文学新人文学賞を受賞。その後、五九年まで短編小説を中心に執筆し、一九六〇年以降は主に長編小説を手掛ける。『金薬局の娘たち』(一九六二)、『市場と戦場』(一九六四)などがこの時期を代表する長編小説である。戦争によって夫を失った女性、歴史に翻弄される家族の姿を描き、読者の共感を得る。一九七〇年以降は大河小説『土地』(一九七三―九四)の執筆に集中し、二五年をかけて五部(全一六巻)にわたる長編大作を完成させた。日本植民地時代を経て解放に至るまでのほぼ一世紀にわたる、韓国の近・現代史のなかに生きる人々の群像劇ともいえる『土地』はベストセラーとなり、韓国の文学史に残る大作である。二〇〇三年に連載を始めた『土地』の続編ともいえる『蝶よ、青山へ行こう』は、作家が二〇〇八年に肺がんで亡くなったために未完成のままとなる。小説以外にも数多くのエッセイ集を残している。社会と現実への批判精神をもちながら、人間と生命に寄り添う、韓国の現代文学を代表する作家と評される。 呉永壽(オ・ヨンス) 一九一四―一九七九。 慶尚南道生まれ。号は月洲、晩年の号は蘭溪。大阪浪速中学卒業。東京の国民芸術学院を修了した後、慶南女子高校の教師となる。そのかたわら、文芸誌『白民』に「山の子」、「六月の朝」などの詩を発表して詩人としても活動する。一九四九年以降、短編小説「山葡萄」(一九五〇)などを発表して小説家に転身する。一九五五年、文芸誌『現代文学』の創刊に携わる。一五〇編以上の作品を残しているが、そのどれもが短編小説である。彼の作品世界は大きく三つに分けられるとされている。「ナミと飴屋」(一九四九)、「山葡萄」(のちに「ゴム靴」と改題)などは純真な子どもの世界を描き、「華山宅」(一九五二)、「明暗」(一九五八)などは現実を告発しながらも人情味あふれる作品といわれる。さらに「磯村」(一九五三)や「こだま」(一九五九)、「秋風嶺」(一九六七)では自然や故郷への郷愁の念が描かれている。いずれも人情味あふれる素朴で抒情的な作風が特徴で、温かみを感じさせるが、一方で歴史や社会に対する批判精神の欠如も指摘されている。一九七九年、肝臓がんのため永眠。 黄順元(ファン・スンウォン) 一九一五―二〇〇〇 。平安南道大同郡(テドングン)に生まれる。一九三四年に日本に渡り、就学。早稲田在学時に『三四文学』、『創作』、『断層』などで同人活動を行い、その頃から小説の執筆を始める。文学への入門自体は一九三一年に童謡と詩を発表したのが始まりで(「私の夢」、「息子よ、怖れるな」)、詩集『放歌』(一九三四)、『骨董品』(一九三六)を刊行している。同人時代以降は小説の執筆に専念するが、対象の属性を圧縮、省略を通じて表現するその文体的な特徴は、概して詩的文体と評されている。初期には成長小説的な色合いの濃い作品を多く発表しているが、後には時代の波にもまれ、苦しむ人々の人生を描いた作品を多く執筆した。それらの作品に登場する人物像は、厳しい状況に置かれながらもそれに屈せず、時に自らの破滅をも辞さぬ強靭な意志とプライドを備えているが、その内面には、抑圧的な世界への怒りとともに、それに対抗しきれていない自らへの自己反省的な怒りをも秘めていることが多い。早稲田大学文学部英文科を卒業してからは故郷に戻って文学活動をしていたが、解放後はソウルに移り、執筆活動とともに教職にも従事、慶熙大学では教授職に就いている。アジア自由文学賞(一九五五)、芸術院賞(一九六一)、三・一文学賞(一九六六)などの文学賞を多数受賞するとともに、韓国の韓国国民勲章柊柏章(一九七〇)、金冠文化勲章(二〇〇〇)を受章している。主な著作として、成長小説「夕立」(一九五三、映画化および日韓共同テレビドラマ化、韓国の教科書に掲載)、「星」(一九四一)、短編「雁」(一九五〇)、「甕を焼く老人」(一九五〇、一九六九に映画化)、長編「カインの後裔」(一九五三―五四)などがある。 【訳者プロフィール】 オ・ファスン(呉華順) 青山学院大学法学部卒業後、韓国の慶煕大学大学院国語国文科修士課程修了。「第1回新韓流文化コンテンツ翻訳コンテスト(ウェブコミック日本語部門)」優秀賞、「韓国文学翻訳新人賞(文化コンテンツ映画字幕日本語部門)」大賞受賞。著書『なぜなにコリア』(共同通信社)。訳書に『つかめ! 理科ダマン』シリーズ(マガジンハウス)、『準備していた心を使い果たしたので、今日はこのへんで』(扶桑社)、チョ・ヘジン『天使たちの都市』(新泉社)などがある。 カン・バンファ(姜芳華) 岡山県倉敷市生まれ。岡山商科大学法律学科、梨花女子大学通訳翻訳大学院卒、高麗大学文芸創作科博士課程修了。梨花女子大学通訳翻訳大学院、韓国文学翻訳院翻訳アカデミー日本語科、同院翻訳アトリエ日本語科などで教える。韓国文学翻訳院翻訳新人賞受賞。日訳書にチョン・ユジョン『七年の夜』、ピョン・ヘヨン『ホール』、ペク・スリン『惨憺たる光』『夏のヴィラ』(共に書肆侃侃房)、キム・チョヨプ『地球の果ての温室で』、チョン・ユジョン『種の起源』、チョン・ソンラン『千個の青』(共に早川書房)など。韓訳書に柳美里『JR上野駅公園口』、三島由紀夫『文章読本』(共訳)、児童書多数。共著に『일본어 번역 스킬(日本語翻訳スキル)』(넥서스 JAPANESE)がある。 小西直子(こにし・なおこ) 日韓通訳・翻訳者。静岡県三島市生まれ。立教大学文学部卒業。一九八〇年代中頃より独学で韓国語を学び、一九九四年に延世大学韓国語学堂に語学留学。その後、韓国外国語大学通訳翻訳大学院で日韓通訳・翻訳を学び、フリーランスの通訳・翻訳者として韓国で活動。現在は日本で日韓通訳・翻訳業に従事。訳書に、イ・ギホ『舎弟たちの世界史』(新泉社)、チャン・ガンミョン『我らが願いは戦争』(新泉社)、『七月七日』(東京創元社、共訳)、イ・ドゥオン『あの子はもういない』(文藝春秋)などがある。

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