詩を書くことで、ひとは詩人になる――
言葉が蹂躙される時代に放つ、極私的詩人論。詩人に憧れながら実業家として半生を歩んだ著者が、幾度となく読み返してきた作品を再考察。なぜ、彼ら彼女らは詩人になったのか、その謎に迫る。「言葉が鍛えられる場所」シリーズ、待望の第3弾。
目次
第1章 堀川正美
新鮮で苦しみ多い日々
第2章 黒田三郎
場違いな場所で途方に暮れているひと
第3章 茨木のり子
彼女がひとりで立っていた場所
第4章 小池昌代
欠如という存在感
第5章 黒田喜夫と「列島」の詩人たち
革命の知らせはついに届かず
第6章 友部正人
倫理的な吟遊詩人
第7章 清水哲男と清水昶
際立つ個性が描いた双曲線
第8章 北村太郎
敗者の直喩
第9章 下丸子文化集団
工場の町に生まれた詩
第10章 小田嶋隆
誰よりも詩を憎んだ男が愛した詩
第11章 伊藤比呂美
現代の言文一致
第12章 鶴見俊輔
この世界を生き延びるための言葉
第13章 寺山修司
虚構が現実を越える瞬間に賭ける
第14章 石垣りん
生活者の芯
第15章 吉本隆明と立原道造
硬質な抒情の前線
第16章 批評的な言葉たち
言葉の重奏性をめぐって
前書きなど
詩とは何であり、何でないのか
私にとって、最も大切な話し相手だったコラムニストの小田嶋隆が、その病の床で、語ったこと。その言葉は私には、意外なものでした。彼とは十年間にわたって、百回以上、対談してきましたが、正面切って詩について話をしたことはなかったからです。
「詩ってね、理想なんですよ。何々は詩ではないってのを10も20も並べられるんですよ。俳句は詩じゃないとか、短歌は詩じゃないとか、評論は詩じゃないとか。だけど、〇〇は詩であるということを断言するのは、どんな文芸ジャンルについて言っても、難しいというか、不可能かもしれないです。だから俺は、詩というのは日本語の致命的なところの、喉首を押さえているような文芸じゃないかと思うんですよね」
これが、友人の内田樹と一緒に、小田嶋隆の最後の病床を見舞った時の言葉です。ちょっと分かりにくい言い方です。そこに論理の飛躍があるからです。「だから~」と続く「日本語の致命的なところの、喉首を押さえているような文芸」とは、具体的にどのようなものなのかについて語ることなく、畏友小田嶋隆は逝ってしまいました。
あの日以来、私は自分より年若いこの英俊なコラムニストが残していった言葉を自分に対する宿題として、考え続けています。・・・・・
著者プロフィール
平川 克美 (ヒラカワ カツミ) (著/文)
1950年、東京・蒲田生まれ。文筆家、「隣町珈琲」店主。早稲田大学理工学部機械工学科卒業後、翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを設立。1999年、シリコンバレーのBusiness Cafe Inc.の設立に参加。2014年、東京・荏原中延に喫茶店「隣町珈琲」をオープン。著書に『小商いのすすめ』『「消費」をやめる』『21世紀の楕円幻想論』、『移行期的混乱』、『俺に似たひと』、『株式会社の世界史』、『共有地をつくる』『「答えは出さない」という見識』他多数。