SOLD OUT
みんなくるしいね、というときの「みんな」が誰なのかはわからなくとも、そこに自分の姿を見出したことがない人はいないんじゃないか。そんなとき、わたしたちはテーブルの下で見えない手をつないでいる。
この本は、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、ときに傷つき打ちのめされながら、言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録だ。またそれは「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察でもあった。「だめ、できない」という言葉のうしろで縮こまっていたかちこちの体を、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」となんとかなだめて引っ張りあげていくような。
(まえがきより)
2010年よりパーソナルな語りとフィクションによる救いをテーマにしたジンを定期的に発行しつつ、言葉を使った作品制作や展示も行ってきた翻訳・文筆家のきくちゆみこ。twililight web magazineでの連載をまとめた初めてのエッセイ集。
書籍化にあたり、全12回に「アフター・トーク」を書き下ろしました。
装画は前田ひさえ、デザインは横山雄。
ままならない過去や体や心をほぐしてくれたのは、いつも書くことだった。
【推薦文】
うつくしい星座のような本でした。一つ一つの記憶はそのときにピカッと光っただけだけれど、いまのきくちさんの目をとおして、その過去が生き直され、私たちの目にまで送り届けられる。それはかわいい竪琴のような形だったり、神話のかみさまだったりして、記憶の連関の仕方自体が物語を持っている。
誰かが深く自分を語ることによってのみ、誰かの痛みや解消しきれない傷にたどり着くことができる。そういう試みを私は愛しているし、きくちさんは勇気をもって、それをやりつづけている人です。LOVE
――中村佑子
読み終えた後、感想を書いたり話すんじゃなくて、本を抱えてベッドで目を閉じたくなった。ひとりの人の<自分のぜんぶ>を一冊の本の形で読めてよかった幸福と、読みながら思い返す自分の<だめ>だったあの頃と。
だめだだめだと書いているけれど、ゆみこさんが歩いてきた軌跡はとても美しく、そして胸が苦しくなるくらいの憧れさえ覚えるのはなぜだろう。後ろ向きに前に進むみたいにして語られるすべてに、ゆみこさんの眼差しが反射しているからかもしれない。どんなに小さくてそのまま消えゆくようなものでも、ちゃんと煌めいていたよと。
――安達茉莉子
目次
まえがき
第一回: 大地でしっかり
第二回: 自立、もしくは複数の顔との出会い
第三回: ちゃんとひとりでみんなで一緒に
第四回: わたしにとってのわたしたち
第五回: 心の底
第六回: ビー・ヒア・ナウ
第七回: 完璧なパフェ
第八回: 鎮痛剤と押し寿司
第九回: 海のおうち
第十回: 熱の世界
第十一回: 自分の薪を燃やす
第十二回: 壁の花ではなかった
あとがき
前書きなど
まえがき
「だめをだいじょぶにしていく日々だよ」
この言葉をぶつぶつとつぶやくようになったのは、いつからだっただろう。「だめを、だいじょぶに、だめを、だいじょぶに」。だ、だ、だ、だ、D……と、舌先を上顎にべったりくっつけながら考える。ちょっとした圧迫とあたたかさ、触れることで思い出せることがたくさんある。それは言葉の一歩手前、まだ誰にも聞こえない、それでも胸のなかにたしかに生まれたかすかな衝動みたいなもの。口に出したら消えてしまいそう、でも声にすれば何かが動き出しそうな、そんなささやかな予感があった。
*
二〇一七年ごろに世界中で流行ったインターネット・ミームがある。もともとはスペイン語で発信され、のちに〈HOW TO MAKE SUSHI〉という英語のタイトルで拡散されたその漫画は、たった6コマで、何をやってもうまくいかない人の心情がパーフェクトに描かれている。
ある男が巻き寿司をつくろうと、あれこれ食材を用意する。さっそく巻き簀に手をかけて、寿司を巻こうとする……のだけど、具材は飛び出し、手は酢飯でべたべたになり手に負えない。ぐちゃぐちゃになった寿司を見て、男は何ひとつうまくできない自分の人生を憂う、「ちくしょう! だいなしにしやがった! お前はいつもそうだ」。男はテーブルの下にもぐりこみ、膝を抱えたまま動くことができない。「誰もお前を愛さない」という心の声に押し潰されながら(毎回思うけれど、日本語訳がすばらしい)。
たとえば心と体を、自分の思いと行動を一致させてものごとをやり抜いていくことが、「生きること」の基礎なのだとしたら。それがうまくできないことはやっぱりくるしい。わたしの場合、それは自転車に乗れないことだったり、跳び箱の手前で硬直してしまうことだったり、クラス対抗の大縄跳びであっさり縄に引っかかることだったりした。そうしたたくさんの「わたしにはできない」が年月をかけて堆積し、「だめ」の巨岩が人生のそこここでドーンとわたしの行く手を阻んでいる。
生きづらさ、という言葉で一括りにしてしまってはたくさんのことがこぼれ落ちてしまうほど、深刻で早急に対処すべき問題をいくつも抱えている世界に生きている。でも、それでも、日常のささいなことで落ち込み、過去のできごとにつまずきつづけている自分のことも放っておけなかった。
「たかが寿司ごときで!」とつっこみたくなる気持ちもよくわかりながら、それでもこのミームが世界各国で訳され拡散され、無数のパロディが二〇二三年のいまでも生まれつづけている現実を思う。みんなくるしいね、というときの「みんな」が誰なのかはわからなくとも、そこに自分の姿を見出したことがない人はいないんじゃないか。そんなとき、わたしたちはテーブルの下で見えない手をつないでいる。
*
この本は、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、ときに傷つき打ちのめされながら、言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録だ。またそれは「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察でもあった。「だめ、できない」という言葉のうしろで縮こまっていたかちこちの体を、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」となんとかなだめて引っ張りあげていくような。
もとになった連載を執筆中、シュタイナー教育をひと通り学べる教員養成講座に通っていた。それと並行して、シュタイナーの考案した身体芸術「オイリュトミー」もここ数年ほど習いつづけている。そうした経験を経たことで、言葉と体のつながりや、文字だけではなく、声・音の持つちからについて深く考えるようになった。いまもぎりぎり音声言語優位の世界にいる、オンとの暮らしも同じような感覚を与えてくれたと思う。
だからこの本には、必然的にそうした学びの記録も含まれている。とはいえ、それらはあくまでもわたしという、個人のフィルターを通した内容だと理解してもらえたらさいわいです。
「だめ」が「だいじょぶ」に移り変わるまでの長い道のり。いくつもの時を、過去を、思い出をまたいでつむいだこの長い長いテキストの途中で、あなたとも見えない手をつなげることを願って。
著者プロフィール
きくちゆみこ (キクチユミコ) (著/文)
文章と翻訳。2010年よりパーソナルな語りとフィクションによる救いをテーマにしたジンを定期的に発行、言葉を使った作品制作や展示も行う。主なジンのタイトルに『愛を、まぬがれることはどうやらできないみたいだ』、『内側の内側は外側(わたしたちはどこへだって行ける)』、訳書に『人種差別をしない・させないための20のレッスン』(DU BOOKS)などがある。現在はルドルフ・シュタイナーの人智学をベースに、心とからだと言葉を結びつけるための修行をあれこれ実践中。